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2014年4月

済州島にて

 第二次世界大戦で日本が連合国に降伏すると、アメリカ軍とソビエト連邦軍が朝鮮半島を北緯38度線で南北に分割し占領した。

 アメリカ主導で進められていた南だけの単独選挙が国の南北分断を決定的にするとして、1948年4月3日、選挙に反対する済州島民が武装蜂起。
それが発端となり、米軍が作戦統治を行っていた韓国軍と警察は、海岸線5kmより内陸にいる人間を暴徒と見なし、鎮圧の名の下無差別に虐殺する。

 事態は熾烈を極め、7年もの間に約3万人が犠牲となったが、その大半は思想や信条とは無縁な人々だった。

 日本に逃れた島民も多く、事件前に28万人いた人口は激減した。
「済州島4・3事件」は時の体制に“アカの島”で起きた“共産暴動”と烙印を押され、近年まで語ることさえタブーとされてきた。

(映画:チスルINTRODUCTION より)

 済州島4・3事件とは、1948年4月3日から1954年9月21日までの間、南朝鮮だけの単独政権樹立を意図する選挙を阻止しようとした済州島の民衆の抵抗とこれに対する米軍政及び韓国の軍・警察による鎮圧に伴う虐殺事件のこと。

 事件の始発点となった1947年3月1日から事実上7年7ヶ月も続き、これにより約3万人を超える島民が殺された。

http://www.u-picc.com/Jiseul/

3月31日~4月4日
韓国の済州島に行ってきた
誘われて4・3事件ツァーに

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上の写真は 、失われた村の当時の様子を描いた看板です

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川と言っても火山岩で覆われた島で、大雨でなければ水は流れないと
そこから、矢印が
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焼き尽くされ破壊された集落の跡が

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この看板が無ければ、事件現場とは分からない

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ここも小学校のグランドですが、虐殺現場である
1949年1月17日討伐隊により村民虐殺が行われた
北村小学校、このグランドで殺戮が行われたのだ

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記憶の記録が石碑として

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すぐ傍に北村里の犠牲者の慰霊碑が
海の見渡らせる公園で

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ここは児童墓地(乳飲み子)、殺されたのは小さな子供達までも
積み重ねられた石の下に眠る児童のお墓

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事件を描いた「順伊おばちゃん」の本が
作者は、逮捕拷問にかけられたそうです

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植民地時代の学校の写真が、資料館に展示され

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砂浜の綺麗な海岸でも

信じられないほどの景観の中に
虐殺の場が
トジンモク・城山邑4・3慰霊公園
この辺の住民達、城山面、旧佐面の住民が
甘蔗工場倉庫に集められて、拷問、銃殺された虐殺跡だ

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城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)(182メートル)には特攻艇「震洋」の基地があり、第45震洋隊の約190人が駐屯。海岸沿いのがけで幅・高さ2~4メートルの横穴18本(総延長526メートル)が確認されているが、その出撃基地の洞窟が見える

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城邑民俗村 も尋ねた
昔の済州島民の暮しを残しながら生活している

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牛が引いたであろう、大きな石臼が

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