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2008年7月

フィールドワーク

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ここは別名「蜘蛛の巣城」とも言われるそうだ

支笏湖から恵庭岳、オコタンペ湖を通り
札幌・石山方面に向かう国道から漁岳登山口に向かい
2キロほど行った山の中に突如と現れる
不思議な建物跡である

8段の階段状になった石垣がある

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昨年2月末から
調査を開始してきた
恵庭鉱山精錬所跡である
昨年3月19日大雪積もる中
雪をかき分け
やっとたどり着けたのがここである
その後、雪が溶けだした5月21日に再び訪れてみた場所である
5月31日にも
早くからこの鉱山跡を調査されている
恵庭の会の方々に案内される機会に恵まれ
坑口が判明したのである

今年は
フィールドワーク「恵庭鉱山跡調査」を
6月2日に行ってきた
総勢と言っても
自分を含め4人での調査

つまり
この日記は
1か月以上前の報告になる

登山道から入ると
すぐ見える石垣もある
そこは、事務所と社宅があったそうだ。

そこを越えて少し奥へ進むと
坂道のようなところに出る
トロッコ線の機動跡
枕木の跡もある
結構勾配がきつい坂道だ
おそらく2台のトロッコにワイヤーが繋がっていて
片方上がり
もう片方が下がって
鉱石をあげていたと推定される。

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昨年の同時期と比べても
今年の異常気象がよく分かる
昨年5月31日には
まだ、日陰に残雪が残っていたのだ
だが
今年は
写真の如く
草木が生い茂り
見通しも利かない状態の中の
フィールドワークであった 

精錬所は鉱石を最上部に積み上げだんだんと砕かれたようだ
1939年には、月産3,000トン、青化精錬所であったと
鉱石は、日本鉱業が経営に乗り出してから支笏湖経由で
搬出されたそうだ。

この恵庭鉱山の探鉱は、1930年(昭和30年)皆川愛j次郎という人らしい
翌年坑口が開かれ、次の年に鉱石が
石山・札幌経由で小坂精錬所(秋田県)に送られたそうだ。

上の写真は
坑木を積み上げたまま
苔むした状態が
60数年の歳月を経た状態である

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石垣の一番下に残されていた排水溝跡も見つかった

1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)までにかけて
操業していた金鉱山跡地である
「北海道金鉱山史研究」によると
操業していたのは
日本鉱業KK

従業員約600人
その内の40%が朝鮮半島から動員されてきた人々
坑内従事者の70%が朝鮮人だったと書かれている
ここにも強制連行・強制労働されて来た人々の歴史が残されていた。

国道から少し入った所に
社宅、学校、交番、郵便局、火葬場もあった。
学校跡付近は植林され赤エゾ松が植えられている
階段があって
そこを登りつき進むと斜めに延びた坂道があった
坂を登りついたところが学校跡だった
コンクリートの土台がまだ残されていた
便所と思われるところもはっきりと確認出来た。

病院や木工場、会社の配給所もあったという

恵庭の街から数十キロ離れた山の中に

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坑口に向かう小川に
シラネアオイとサンカヨウの花が咲き乱れていた
昨年訪れた時には
まだ、所々に雪が残っていた川筋に

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坑口には
安全対策のためネットが張ってある
ネットをはぐって見ると
坑口が口を開けている
いきなり縦抗だ
中に吸い込まれそうになる
命綱をつけていなければ危ない
危険につき
くれぐれも真似をしないでほしい

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上の1枚は
昨年5月31日に訪れた坑口から見た風景である
雪が残っているのが分かる
向かい側にずり山が見える

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最後は火葬場を見てきた

クチャンナイの小川付近から
熊笹をかき分けて
辿り着く
煉瓦つくりの
この山の中に似つかしくない
火葬場である
いったい
誰が亡くなったのか
お墓が無い
どうしてだろう?

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